古代の集落の移動
2023-04-10
年度が変わり、新しい生活を始めた方々もいらっしゃるかと思います。進学や就職、転勤と生活の場所が変わりやすい時期ですね。さて、今回は“集落の移動”についてお話ししたいと思います。
4世紀の後半ごろになると胆沢扇状地に集落が営まれます。胆沢川の南岸を中心とするグループと現在の国道397号線周辺を中心とするグループです。集落の規模はわかりませんが、数棟を1つの集落としているようです。この2つのグループは8世紀の半ばまで、集落の規模を大小させながらも脈々と続きます。
8世紀の半ばを過ぎると、胆沢川南岸の集落はほとんど消滅し、国道397号線沿いが中心となります。また、北上川東岸にも新しく集落が営まれ始めます。8世紀の後半といえば、この地への律令国家の圧力が徐々に強くなり始める時期でもあります。社会の状況が反映された結果なのでしょうか…。
胆沢城造営以前、在地の人々は「土師器」と呼ぶ素焼きの食膳具を使っていました。胆沢城造営直後には「須恵器」と呼ばれる窯で焼成した食膳具を使用する集落が新たに営まれます。「須恵器」を食膳具とする人々は移住してきた人々と考えられます。胆沢城造営とほぼ同時に新しい技術の導入と生産力の向上を目的として他地域から移住を命じられたのでしょう。一方、新しい集落でも「土師器」と「須恵器」が混在して出土することがあります。在地の人々を分断して勢力をそぎ落とし、移住者とともに生活することを命じられたのでしょう。胆沢城造営以前から継続する集落にも「須恵器」は出土しますが、その量は非常に少なく、特別な人、例えば村長(むらおさ)的な人が使用したことや、特別な行事に使用したことなどが考えられます。
8世紀前半までは大きく分けて2つのグループ、地域で集落が営まれます。8世紀後半になると国道沿いの集落に勢力が集中し、北上川東岸まで広がります。胆沢城ができると在地勢力のそぎ落とし、新しい技術による生産力の向上のため計画的に集落がつくられます。もちろん「律令」の規定に従った戸数により集落をつくっているわけですが、在地の人々も他地域から移住してきた人々も不安はあったことでしょう。胆沢城造営後も目的に沿って新しい集落がつくられ続けますが、目的を達するとまたどこかへ移動してしまうこともありそうです。胆沢城の政策により、人々は翻弄されていたことでしょう。
文:所長 佐藤良和
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