仙台藩の要害
2022-07-15
江戸時代の胆沢・江刺郡(現在の奥州市・金ケ崎町)は、仙台藩領の北辺に位置し、南部藩領との国境であることから、地理的に重要な地域でありました。そのことから、仙台藩の伊達家一門や重臣が、藩主から各要衝の城郭・町場などを預けられて地域支配を行います。この要衝は「要害」と呼ばれ、中心となる城郭が領主の居館「要害屋敷」と位置付けられます。
慶長20(1615)年の一国一城令によって諸大名は、複数の城郭を持つことが禁止されますが、例外的に支城を持つことのできる大名も存在しています。この法令は、画一的なものではなく、親藩や外様大名の大藩では、複数の城郭を所有して、一門・大身家臣に城郭を預けるなど、柔軟な制度としての側面もみられます。仙台藩においては、仙台城と白石城の2城が公式に許可されていますが、要害制とされる仙台藩独自の支城制が存在し、「要害屋敷」として幕府に認知されています。ちなみに、南部藩では盛岡城・花巻城・遠野城など、佐竹藩では、久保田城・横手城・大館城が許可されています。
要害は、中世城郭を改修したものが多く、近世城郭としては見劣りしますが、枡形や一部に石垣を設けているなど城郭そのものです。この要害制は、「城・要害・所(ところ)・在所(ざいしょ)」とした支城制を基本とした階層構造があり、仙台藩の地方知行制(家臣は藩主から直接土地を与えられ、土地の収益をそのまま受け取る制度)による格付けと密接に関係するものです。そのため、要害・所を支配する家格は、一万石~二万石クラスの一門や大身家臣が少なくなく、小幕府的な支配体制であることが窺われます。
要害制の歴史は、伊達政宗が天正19(1591)年に旧大崎葛西領へ転封された後、家臣団を領内諸城へ配置したことに始まります。しばらくは城郭として存在してきましたが、一国一城令に反することから、貞享4(1687)年に要害屋敷として幕府に届けられます。その数は21ヶ所に及び、要害が配置されていない地域には、所が補助的に分布している特徴がみられます。胆沢・江刺郡の領主層は、水沢要害・岩谷堂要害・前沢所に一門を配し、藩境付近の上口内要害・人首要害・金ケ崎要害・野手崎所に上級家臣層を配置するなど、家格によって配置する要衝に違いもみられます。
要害は、単なる軍事拠点ではなく、町場・宿駅などの城下町を必要とし、経済の地域拠点ともなりました。その基本的な条件としては、地理的条件が重視され、南北に縦貫する奥州街道と東西の脇街道を意識し、丘陵・段丘の縁辺部や独立丘陵上などに立地する中世城郭を再利用します。現在、奥州市内の街地は、元々、要害・所が所在した場所であり、一部にその名残がみられます。
(専門調査員 遠藤栄一)
※禁無断転載