胆沢城と中世景観
2022-05-15
胆沢城跡は、古代の城柵官衙遺跡として有名ですが、その周辺には、源頼朝によって保護された鎮守府八幡宮や、中世城館跡・中世板碑もあります。胆沢城後の中世は、いったいどんな景観であったのか。現在に残る遺跡・遺物から紐解いてみます。 |
平安時代に鎮守府が置かれた胆沢城は、武士社会の到来とともに、その姿を消します。近年の発掘調査によって考古学上は、10世紀後半に廃絶されたとされますが、前九年合戦で有名な安倍氏が在庁官人であったといわれているように、その後も何らかの形で存続されていたことが考えられています。
胆沢城の城外北東に鎮座する鎮守府八幡宮は、文治5(1189)年の奥州合戦後、源頼朝によって保護されます。『吾妻鏡』によると、鎮守府八幡宮に奉幣した頼朝は、神事はことごとく御願として執り行うように命じた、という記述があります。これを裏付けるかのように、八幡宮周辺では、わずかではありますが、12世紀のかわらけや常滑焼などの遺物が出土しています。遺構が検出されていないことから、八幡宮との関連性は分かりませんが、12世紀の痕跡があったことを想像させます。
鎮守府八幡宮の北西500m先には、上舘と呼ばれる中世城館があります。上舘は、水沢佐倉河字八ツ口地内、胆沢城跡の城外北側に位置し、別名「古舘・速瀬舘」とも呼ばれます。城館の現況は、果実園で、多くのリンゴの木が栽培されていますが、幅10mほどの堀跡が現存しており、4つの郭によって構成されていることが分かります。また、城館の遺存状況は比較的良好で、春から秋にかけては、その構造をみることができます。館主や年代については不明ですが、中世には無名の在地領主が居住していたことが考えられます。
奥州市埋蔵文化財調査センターの南西350m先、JR東北本線の西側には、鎌倉時代末期の文保元(1317)年の板碑を祀る三宝荒神社があります。板碑とは、中世で盛んに造立された石製の供養碑のことで、造立者の両親などを追善供養するために造られました。この板碑は、明治時代に水田から発見されて、ご神体として祀られたものとされています。板碑に刻まれた梵字「バン」が、13回忌の追善供養を司る金剛界の大日如来や三宝荒神を示すことから、三宝荒神社となったと考えられます。
古代では、日本史の教科書などに登場する胆沢城ですが、中世になると、歴史の表舞台から消えていきます。中世では、上舘のような館に居住した在地領主が、この地域の有力者となったことが想像されます。現在は水田地帯でありますが、その歴史景観を牧歌的に感じとれる地域でもあります。
(文:専門調査員 遠藤栄一) ※禁無断転載