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胆沢城跡は国指定100周年

2022-04-16
 胆沢城跡は、大正11年(1922)10月12日、内務大臣により指定された史跡です(内務省告示第270号)。当時、発掘調査は行われていませんが、なぜ奥州市水沢佐倉河地内の現在地が胆沢城跡に指定されたのか。今年で史跡胆沢城跡が国指定100周年を迎えることにちなみ、その経緯を振り返ってみることにします。
 奥州市埋蔵文化財調査センターから北に300mほど行ったところに、四ツ角千葉酒店があります。その旧国道4号を挟んだ向かい側に「史跡胆沢城跡」の標柱が建っています。標柱右側面に「大正十一年十月十二日指定 昭和三十年三月二十日建立」、左側面に「文化財保護委員会 水澤市教育委員会」と刻まれています。
 胆沢城跡の最初期の発掘調査は、昭和29年(1954)から翌30年にかけて行われましたが、その際に文化庁の前身である文化財保護委員会が設置した碑です。政庁前門と外郭南門を結ぶ城内大路に当たる場所で、そばに政庁の説明版と遺跡ガイダンスポストが設置されています。
       史跡標柱
標柱そばの「政庁地区説明版・遺跡ガイダンスポスト」
 ところで、胆沢城の所在地について、10世紀前半に編纂された『和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』は胆沢郡に在ると記述するだけで、具体的な場所を特定する手掛かりはありませんでした。史跡指定当時、郡内の胆沢城跡擬定地は何か所かあったようで、郷土史家・佐藤長三郎の著書『鎮守府八幡宮と胆沢城趾』(1925年)では、①胆沢郡小山村方八町、②胆沢郡古城村中畑、③胆沢郡金ヶ崎村、④胆沢郡永岡村百岡、⑤胆沢郡佐倉河村宇佐、の5ヶ所が挙げられています。いずれの説も古いいわれや旧跡に関連付けて提唱されていたようです。
 
①胆沢郡小山村方八町(現、胆沢小山内)
 江戸時代に作られた『封内風土記』や『安永風土記御用書出』には、古塁「方八町館」が紹介されています。この「方八町(丁)」が往古の役所や陣営などに由来していると考えられたようです。
②胆沢郡古城村中畑(現、前沢古城内)
 「方八町」という地名が伝承しており、擬定地とされました。
③胆沢郡金ヶ崎村
 同地には金ヶ崎城跡がありますが、『胆沢郡誌』(岩手県教育会胆沢郡部会、1927年)では「延暦二十年征夷大将軍坂上田村麿高丸悪路王等の夷賊征討の時築きしものなり」とされています。
④胆沢郡永岡村百岡(現、金ヶ崎町内)
 同地には中世城館の大林城がありますが、そこを歴史地理学者の原秀四郎が胆沢城跡に擬定したようで、彼の学位記(1905年)にその旨が掲載されている他、著書『日本国史地図』(1906年)でも永岡村説を採用しました。
⑤胆沢郡佐倉河村宇佐
 現在の胆沢城跡のある場所で、大槻文彦が「陸奥国駅路考」(『歴史地理』3-6・7、1901年)で述べています。同地にも「方八町」という地名が残り、『封内風土記』『安永風土記御用書出』で紹介されている他、鎮守府八幡宮が鎮座するのが重要なポイントで、『吾妻鏡』に載せられた以下の記述は、鎮守府胆沢城と八幡宮が密接な関係にあることを物語っています。
 「伊沢郡鎮守府に於いて八幡宮〔第二殿と号す〕瑞籬(みずがき)に奉幣せしめ給ふと云々。是、田村麿將軍東夷を征せんがため下向するの時、崇敬の霊廟を勧請し奉る所なり。彼の卿帯ぶる所の弓箭ならびに鞭等これを納め置く。今に宝蔵にありと云々」(文治5年(1189)9月21日条)
 このように擬定地が複数ある中で、どうして佐倉河村宇佐に胆沢城があったと特定されたのでしょうか。『鎮守府八幡宮と胆沢城址』を参考に、特定に至る経緯をたどることにします。
 同書には「珍蔵の胆沢城古瓦紋瓦は、去る大正四年八月平泉歴史講演会があった時、喜田博士他の講師の閲を得たのである。尋(つ)いで同月十四日、講師大森・岡部・藤田の三文学士の実地踏査となり、平泉持論と合致したと云はれた。其後一考証したいといって居られたが惜むべし、藤田・岡部二氏ともに相ついで歿せられてしまった。後に本県師範学校教諭菅野義之助氏、同校々友会雑誌に其研究を載せられてあった」と記述されています。
    佐藤長三郎
 大正4年(1915)8月、平泉で開催された日本歴史地理研究会夏季講演会で、佐藤長三郎が京都帝国大学講師の喜田貞吉ほかの参加者に、佐倉河宇佐の「方八町」から出土した八葉単弁軒丸瓦、連珠紋軒平瓦などを見せています。その結果、大森金五郎・岡部精一・藤田明が現地を踏査することとなったようです。講演会には講師として、京都帝国大学教授原勝郎、早稲田大学教授吉田東吾、東京帝国大学史料編纂掛(のちの史料編纂所)初代所長辻善之助なども参加していました。胆沢城跡擬定地「方八町」に研究者の注目を集める先鞭をつけたといえます。
 その後の大正8年(1919)4月、遺跡をはじめとした「記念物」の保存を図る「旧史跡名勝天然記念物保存法」が制定され、大正10年(1921)3月3日には大宰府跡と水城跡が史跡指定されました。胆沢城跡も対象となり、佐藤長三郎はこの時の様子について、「内務省に於て、史蹟名称天然記念物保存会考査官の調査する所あり、大正十年五月十七日柴田常恵氏、同十一年五月三十日同省属上田疇氏来県実地踏査せられ、著者も之に参会するを得た」と記しています。
 柴田常恵は明治初期から昭和にかけて活躍した考古学、文化財保護行政の専門家で、東京帝国大学理学部人類学教室の助手等を経て、大正9年に史蹟名勝天然記念物調査会の考査員となっています。大正13年(1924)には、国指定史跡候補の調査のため、岩手県磯鶏蛭夷森貝塚や崎山貝塚などを発掘しています。一方、もう一人の上田疇については、その人物・経歴に関する手がかりが得られず、よくわかりません。
 文化財保護委員の現地調査に立ち会った佐藤長三郎は、当然、「方八町」やそこから出土する瓦や土器、鎮守府八幡宮の宝物なども案内したはずです。その結果、「方八町」と呼ばれてきた方約675mの外郭築地の外側1筆を基本に、鎮守府八幡宮が位置する字宮ノ内と字舘の全域が史跡に指定されたと思われます。史跡指定説明は、「延暦二十一年坂上田村麿ノ築ケルモノナリ多賀城ノ鎮守府尋テ此ニ移サル其ノ規模略(ほぼ)長方形ニシテ土塁ヲ繞(めぐ)ラシ一部に外濠ノ阯ヲ止ム当時ノ陶器土器及遺瓦ノ破片等散在セリ」と記述しています。

(文:センター所長)※禁無断転載
「史跡指定申請添付図面」を加筆・着色
■常設展示室観覧のご案内■
開館時間 9:00~16:30
     (最終入館16:00)
観覧料 個人 300円
    小・中・高校生 無料
    (団体15人以上は半額料金)
休館日 毎週火曜日・年末年始
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