シリーズ3◆鎮守府胆沢城と「俘饗」
城柵の重要な機能の1つに、蝦夷に対する賜饗賜禄である「饗給」がありました。鎮守府胆沢城では「俘饗」という形で実施されていたことが文献資料にみえます。胆沢城跡からは、そんな「俘饗」との関係が想定される遺構・遺物が見つかっています。
胆沢城政庁の南東に、胆沢城での給食業務を担った厨地区があります。厨とは食事を調理するところで、胆沢城内からは、「厨」と記された墨書土器が複数発見されています。厨地区の井戸の中からは、まな板や箸など、調理が行われた場所としてふさわしい遺物が出土しており、また、イノシシやシカといった動物の骨も見つかっていますが、文献資料からは、鎮守府胆沢城での「俘饗」の際に肉が振舞われたことがうかがえます。
厨地区の北側には東方官衙地区が広がりますが、9世紀後半から、格式高い廂付きの建物が次々と出現し始めます。さらに、当時の高級品である陶磁器のお皿も大量に出土するため、「俘饗」はここで行われたのではないかと想定されています。