阿弖流為(アテルイ)
アテルイとは?
阿弖流為(あてるい)は今から約1,200年前、現在の奥州市水沢地域付近で生活していた蝦夷の一人です。
当時『水陸万頃』と言われていたこの胆沢地方と蝦夷を統治したい朝廷軍との戦いがありました。その中で阿弖流為は蝦夷のリーダーとして勇敢に立ち向かった人物です。
阿弖流為という名は『続日本紀(しょくにほんぎ)』、『日本紀略(にほんきりゃく)』という古い文献2冊にそれぞれ1度登場します。
『続日本紀』では、延暦8年(789)、巣伏村での戦いで朝廷軍に大勝した時のリーダーとして書かれています。
しかし、この戦いを含めた幾度もの戦いで朝廷側でも多くの犠牲を強いられていました。
『日本紀略』には延暦21年(802)、阿弖流為は仲間の母礼(もれ)と共に征夷大将軍だった坂上田村麻呂の下に降伏し、都へと上ります。
田村麻呂は朝廷に2人を故郷、胆沢へ返すよう進言しますが聞き入れてもらえず、旧暦8月13日阿弖流為と母礼は河内国椙山〔現在の大阪府枚方市〕で処刑された、と記されています。
このように阿弖流為については彼の最期こそわかるものの、いつ生まれたのか?どのように育ち、どんな人物だったのか?という詳しいことについては蝦夷たちが書いた文字資料がなく、また朝廷側が書いた資料で、現在残っている資料はとても少ないため、わからないことがまだまだ数多くあります。
アテルイの登場
アテルイの名は今から約1,200年前の延暦8年(789)、初めて史上に登場します。
8世紀後半、朝廷はエミシ遠征計画を胆沢地方一点にしぼってきました。
軍事遠征の準備も整った延暦7年(788)12月、征東大将軍紀古佐美(きのこさみ)に胆沢遠征の命令が下りました。遠征軍は坂東諸国歩騎ほき52,800余人で、編成にはこれまでの戦闘経験者、戦功者、弓馬に長たけた者たちが選抜されました。
翌8年3月上旬、遠征軍は多賀城を出発し、胆沢へ進軍しました。同月末には胆沢の南端の衣川に到着し、軍を前・中・後の3軍に分けて布陣しました。
同6月、遠征軍が動きます。3軍から精鋭を選んで合同で当たることになりました。前軍が北上川右岸を中・後軍は4,000の兵で同左岸をそれぞれ北上し、アテルイの拠点地域である巣伏村(奥州市水沢区東郊一帯)で合流するという作戦です。
これに対し、アテルイ軍はゲリラ戦で応戦し、両岸を北上する政府の精鋭部隊を撃破したのでした。史上にいう「胆沢の合戦」の緒戦です。
アテルイの名はこの戦闘過程の中に現れてきます。さきの中・後軍各2,000人が北上川左岸を北上し、まさに「賊帥夷阿弖流為の居に至るころ」(『続日本紀』)という記事です。
この段階のエミシ社会は、部族ごとに戦士集団が形成されており、アテルイらはエミシ戦士団を核に、胆沢のエミシ連合軍を編成し、陽動作戦とゲリラ戦で応戦したのでした。
この後、政府は2回胆沢遠征軍を派遣しますが、アテルイ軍は13年間にわたって、これを戦い抜いてきました。
田村麻呂の登場
延暦8年(789)の「胆沢の合戦」に大敗した政府は翌9年、直ちに第2回胆沢遠征の準備をはじめました。
第2回遠征軍の人事は、征夷大将軍大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)副将軍坂上田村麻呂らでした。
田村麻呂がエミシ問題に関わって初めて登場してきます。
このとき田村麻呂は天皇の側近として近衛少将(このえのしょうしょう)の位にありました。
延暦13年(794)正月、将軍弟麻呂は桓武天皇から節刀(せっとう)たまわり、胆沢遠征に出発しました。今回の遠征軍の実戦部隊の総指揮官は田村麻呂でした。
彼は6月、10万の遠征軍がエミシ軍に勝ったと京に報告しました。しかし、胆沢はまだ落ちません。
延暦15年(796)、前回の余韻も冷めやまぬうちに、第3回胆沢遠征計画が始まりました。
数年かけて、遠征の手はずを整えた田村麻呂は延暦20年(801)、征夷大将軍として胆沢の遠征に出発しました。
陣容は軍士4万人、軍監5人、軍曹32人と前回の半分以下に縮小されています。
胆沢のアテルイらは、これまでの戦いで大半の戦士を失い、加えて西岸一帯の荒廃は食糧難という事態を生み、エミシ戦士らは疲弊の度を増していました。
田村麻呂が編成した陣容は、すでにこのような情況を察知した上でなされたものでしょう。
アテルイ降伏
延暦20年(801)2月、征夷大将軍坂上田村麻呂は第3回胆沢遠征に出発しました。
しかしこの間の詳しい戦闘経過は『正史』を欠き、ただ『日本紀略』9月27日条に、田村麻呂が「東賊を討伏」したとあるだけで、前回のときのような戦果も不明です。
ただし今回は、胆沢遠征に止まらず、遠く閉伊地方(今の久慈・閉伊地方)にまで軍を派遣し、一定の戦果をあげたようです。
(『日本後紀』弘仁2年12月13日条)
田村麻呂は翌10月、節刀を桓武天皇に返し、遠征結果を報告しますが、これで蝦夷の反乱をほぼ完全に制したという評価が与えられました。
翌年正月、田村麻呂は再度胆沢に下ってきました。
胆沢城を造るためで、あわせて諸国から浪人4,000人を胆沢城に移しました。
4月15日、胆沢城造営中の田村麻呂のところに、阿弖流為、母礼らがエミシ戦士500余人を率いて投降してきました。
巨大な胆沢城を目の前に、万策尽きたというのが実情でしょう。
7月、軍事首長2人を従えて田村麻呂は上京し、裁決は公卿(くぎょう)たちに委ねられました。
田村麻呂は2人の助命を願い出、在地の蝦夷を馴化(じゅんか)するには彼らの協力が必要なことを説きました。
しかし、公卿たちは国家に抵抗した「反乱の首謀者」という認識でしたので、願いどおり胆沢へ赦免すれば、再び反乱は必定とみて捕捉の上、河内国椙山で斬刑に処しました。
時に延暦21年(802)8月13日(旧暦)のことです。