国府多賀城と鎮守府胆沢城
2024-07-13
多賀城は724年に創建され、今年で1300周年を迎えます。多賀城は陸奥の国府であり、胆沢城創建以前は鎮守府も置かれていました。802年の胆沢城造営の後、808年までに胆沢城へ鎮守府の機能が遷され、以後、国府の多賀城と鎮守府の胆沢城が並び立つ体制となります。多賀城と胆沢城は、古代陸奥国の歴史を語る上では欠かすことができません。
とはいっても、多賀城と胆沢城とでは、相違点もあります。例えば、立地や平面プランでいえば、多賀城が丘陵上にいびつな四角形で造られたのに対し、胆沢城は平野部に正方形で造られています。なお、サイズ的には多賀城の方が大きいです。加えて、多賀城周辺には、整然とした街区が形成されたことが分かっていますが、胆沢城周辺では、今のところ、そのような町割りのある地区は確認されていません。
また、多賀城跡と胆沢城跡を特徴づける遺物に、漆紙文書※があります。特に多賀城跡は、漆紙文書という資料の存在が初めて確認された遺跡です。ただ、両遺跡の漆紙文書を比べてみると、多賀城跡からは、物品の請求・貢進文書、民衆把握の台帳である計帳、田の位置・名称・広さ等を記した田籍文書など、多種多様な漆紙文書が発見されているのに対し、胆沢城跡出土の漆紙文書は、兵士や官人に関するものが多い一方、民政に関するものはほとんどなく、近年確認された第34号文書(「歴名簿」)が唯一といったところです。今後新たな発見もあるかもしれませんが、現時点では、こうした違いは、国府と鎮守府の性格の違いや両城の関係に起因しているとみることもできそうです。
城内のエリア分けや建物の造りなど、細かい点をあげれば、他にも違いは指摘できそうです。もちろん、両城には、政庁を中心に巨大な外郭施設がめぐるという基本構造、兵力の常備、「館(たち)」的建物の存在といった共通点も少なくないのですが、それらを整理し、比較検討することで、両城の性格や、その背景にある政策・方針の特徴、時代的傾向などがみえてくることでしょう。また、国府多賀城と鎮守府胆沢城の関係も、様々な議論があり、実態解明が待たれるテーマです。
(文:専門学芸員 大堀秀人)
●禁無断転載
※漆紙文書…漆容器の蓋として再利用された古文書に漆が染み込み、土中でも腐らずに残ったもの。文字の判読には赤外線カメラを用いる。