古代東北の陰陽師
2024-05-10
平安時代を舞台にした作品において、とりわけ重要なポジションを与えられるのが陰陽師です。陰陽道に通じ、占いで未来や危機を予見し、不思議な術で災いをはらう、どことなく風変わりな存在。そんなイメージを持たれている方も多いのではないでしょうか。もちろん、創作物であればオーバーに描かれることもありましょうが、実際の古代社会においても、陰陽師が果たした役割は大きいものがあります。
律令の規定では、陰陽師をはじめ陰陽道に関することは、陰陽寮という役所が管轄することになっています。また、陰陽寮では技術者の育成も行われました。このように、彼らの主な活動の場は都なわけですが、一方で、地方に陰陽師が置かれることもありました。その中には、陸奥国・出羽国、そして鎮守府も含まれています。陸奥国への設置年は不明ですが、出羽国には嘉祥3年(850)、鎮守府には元慶6年(882)に置かれました。さらに、古代の百科全書ともいわれる『延喜式』には、蝦夷との戦争で派遣される征夷使の構成員の中に、陰陽師がみえます。
古代社会において、天変地異や怪異が起きると、それは神のタタリや何らかの予兆であると受け止められました。例えば、貞観13年(871)に起きた鳥海山の噴火では、占いの結果、鳥海山の大物忌神(おおものいみのかみ)に祈願しておきながら参拝がないこと、山中の墓の骸骨が山の水を汚したことへのタタリと判明し、鎮謝しなければ兵乱が起きるとされました。また、貞観11年(869)に陸奥国を襲った、いわゆる”貞観地震”の時も、戦乱や異常気象、疫病や飢饉が起きないように、神社や天皇陵への祈祷が行われています。
陸奥国や出羽国は、蝦夷の反乱に備えるともに、古代日本国の国境として、時には諸外国の動向を警戒することもある「辺要」の地でした。占いで異変が示す事態を正しく読み取り、適切な対応を迅速に行うために、現地に陰陽師を置く必要があったのです。陸奥・出羽・鎮守府の陰陽師の仕事ぶりについては、史料が乏しく、具体的なことはほとんど分かりませんが、軍事的緊張が続き、また、多くの自然災害に見舞われた平安時代の東北にあって、彼らの存在は重要であったと思われます。
古代の陰陽師の役割は、占いだけではありません。他にも暦や天文、時刻に関することをつかさどりました。また、様々な呪いや祭祀を行ったことは皆さんご存じのとおりです。官衙遺跡周辺を中心に、祭祀に関わる遺物が見つかることもあり、今後発掘調査や研究が進めば、未だ知られていない古代東北の陰陽師の実態が、段々とみえてくるかもしれません。鎮守府胆沢城にいた陰陽師は、一体どんな人たちだったのでしょうか。
(文:専門学芸員 大堀秀人)
※禁無断転載
(文:専門学芸員 大堀秀人)
※禁無断転載
【参考】
熊田亮介「奥羽の神々」『新版古代の日本 第九巻 東北・北海道』角川書店、1992年
堀裕「東北の神々と仏教」『三十八年戦争と蝦夷政策の転換』吉川弘文館、2016年
松本政春「奈良朝陰陽師考-その軍事史的意義を中心に―」『律令兵制史の研究』清文堂出版、2002年