奥州街道の一里塚
2024-04-10
江戸時代、仙台藩領を南北に縦貫する主要街道は、奥州街道(正式には奥州道中)でありました。藩領内の沿線には、要害や所などの地域拠点が配置され、城下町も整備されるなど、街道整備に伴って交通の要衝が続々と形成されました。
本来の奥州街道は、併用する日光街道の一部(東京都中央区日本橋から栃木県宇都宮市)と白河以南(宇都宮~福島県白河市)を指しますが、一般的には白河以北から三厩(青森県外ヶ浜町)も含めて呼ばれるようになります。奥州街道を含む五街道は、江戸時代初期に徳川家康によって整備されます。家康は、江戸幕府の支配強化のため、全国に通じる街道の整備を行い、伝馬制度を活用した交通網を確立させていきました。
江戸時代の街道の痕跡を残す遺構として一里塚があります。一里塚は、名前の通りに一里(約4km)毎に塚が設置されました。その規模や特徴は、敷幅五間(約9m)四方、高さ1丈(約1.7m)の土盛の塚で、街道の両側に相対して築かせて、頂上に榎・松・杉などを植えさせたといわれています。無論、大名行列や旅人の距離標でもありました。現在、街道沿線の一里塚そのものは、大分失われていますが、仙台藩領北辺である奥州市・金ケ崎町内には一里塚が残っています。
水沢要害への出入口にある真城一里塚(しんじょういちりづか)は、奥州市水沢真城字中上野地内に所在し、仙台城下(宮城県仙台市青葉区北目町)から数えて30番目の一里塚です。昭和44年の国道4号バイパス工事で東塚が失われましたが、現在は西塚とそこに植えられていた杉の根元が残されています。
胆沢郡北端の清水端一里塚(しみずばたいちりづか)は、金ケ崎町三ケ尻川口田地内に所在し、仙台城下から数えて33番目の一里塚です。現在は、東塚だけが残されており、塚の上には樹齢約400年の杉が植えられ、その根元だけが今に残ります。その規模は、東西約9m、南北約7m、高さ1.6mあります。塚と杉が残っている事例は極めて少ない貴重な史跡です(金ケ崎教育委員会作成の現地説明版を参考)。
他には発掘調査された事例として、奥州市前沢白鳥字徳沢地内の徳沢一里塚跡(とくさわいちりづか)があります。また、南部藩領ですが、北上市二子町馬場野の奥州街道跡では、街道の道路遺構・側溝・土手などが検出されています。
(文:専門学芸員 遠藤栄一)
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