大正11年の記名瓦~胆沢城跡の史跡指定前夜~
2023-08-10
胆沢城跡の発掘調査が本格化する前、胆沢城跡から出土・採集された資料は、鎮守府八幡宮境内地にあった「胆沢城跡収蔵庫」で保管されていました。その収蔵資料は、現在では当センターに移されています。先日、胆沢城跡収蔵庫旧蔵資料を使用する機会があり、コンテナを漁っていたところ、何の変哲もない土器や瓦に紛れて、こんな資料が見つかりました。
もの自体はごく普通の平瓦ですが、その表面に、「大正十一年五月三十日」という日付と、「内務属 上田疇」他、計7名の人名が記載されていました。一見すると何のことかよくわかりませんが、実は、これに当てはまる出来事が、郷土史家 佐藤長三郎の著書『鎮守府八幡宮と胆沢城趾』に記されています。やや長くなりますが、引用します。
「珍蔵の胆沢城古瓦紋瓦は、去る大正四年八月平泉歴史講演会があった時、喜田博士其他の講師の閲を得たのである。尋いで同月十四日、講師大森・岡部・藤田の三文学士の実地踏査となり、平泉持論と合致したと云われた。其後一考証したいといって居られたが惜しむべし、藤田・岡部二氏ともに相ついで歿せられてしまった。後に本県師範学校教諭菅野義之助氏、同校々友会雑誌に其研究を載せられてあった。ついで内務省に於て、史蹟名勝天然記念物保存会考査官の調査するところあり、大正十年五月十七日柴田常恵氏、同十一年五月三十日同省属上田疇氏来県実地踏査せられ、著者も之に参会するを得た。」
これによると、大正4年(1915)の「平泉歴史講演会」(その内容は『奥羽沿革史論』として刊行)の際、佐藤長三郎が胆沢城跡出土瓦を喜田(貞吉)博士ら講師一同に披露したことを契機に、胆沢城跡への研究者の関心が高まり、実地踏査が重ねられたようです。そしてその結果、大正11年(1922)10月12日に、胆沢城跡は内務省指定の史跡となったのです。
さて、改めて胆沢城跡収蔵庫旧蔵の瓦を見てみると、「大正十一年五月三十日」という日付、そして「内務属 上田疇」や「佐藤長三郎」の名前は、『鎮守府八幡宮と胆沢城趾』の記述にピタリと一致するのです(さらには、同書にみえない参加者がいたことまでわかります)。この瓦は、胆沢城跡の史跡指定直前の一コマを映す、貴重な資料といえます。調査参加者の”胆沢城はまさしくここにあったんだ”という確信や史跡指定への意気込みが、何だか伝わってくるような気がします。
ちなみに、『鎮守府八幡宮と胆沢城趾』には、当時の鎮守府八幡宮の社殿や周辺風景の写真が掲載されています。その中に「胆沢城阯古紋瓦破片」の写真もあるのですが、形からみて、これに該当する瓦も探すことができました。『水沢市史』に掲載された資料でもありますが、もしかしたら、大正4年に喜田博士らが見た「珍蔵の胆沢城古瓦紋瓦」というのも、これだったのかもしれません。100年前の人々の史跡への想いに触れるような、思いがけない、うれしい発見でした。
(文:専門学芸員 大堀秀人)
※禁無断転載