奥州市の一字一石経
2023-07-12
現在、奥州市内で開催中の「発掘された奥州市展2023 江戸時代のいのり―胆江地方にみる信仰の諸物―」では、一字一石経が展示されています。
一字一石経とは、経典を紙本に書写して埋納する代わりに、小さい礫(石)に一文字を書写したものです。数文字が書写された経石は「多字一石経(たじいっせききょう)」と呼ばれています。
書写された経典は、『妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう)』が大半を占めますが、他の経典に該当するものもあるようです。埋納された経石の数は、経塚の規模によって違いますが、数千、数万個に上ります。そのため、元の経典に復原することは困難であるため、経典の保存を目的としたものではありません。
礫石経の派生は、中世以降に経石を埋納した経塚が造られるようになりますが、江戸時代になると爆発的な流行を見せ、日本各地で盛行するようになります。主に寺院や神社の境内などの宗教的な場所に埋納される傾向があり、寺院堂宇の床下、塔の礎石下、墳墓からの出土など、様々な事例があります。奥州市内では、西舘一字一石経塚(前沢生母字西舘地内)、石神経塚(衣川字石神地内)、江刺岩谷堂字南町付近(表採資料)などの経塚遺跡があり、経石が出土しています。
本来の経塚とは、平安時代中期の末法思想にともない、お釈迦様の教えを後世に残すために経典を経筒に埋納した施設ですが、江戸時代になると礫石経の経塚が主流となり、埋納する目的も変化していきます。一般的に、庶民の間でも流行し、地鎮や鎮魂を目的とする他に、五穀豊穣や村内安全など庶民の生活上の願いを込めて埋納されました。また、飢饉、津波、火山噴火などの災害に際して、僧侶による救済がなされ、多くの経塚が造られました。つまり、江戸時代の経塚は、現世利益的な性格を持ち、経典の呪力を期待して行われたものと考えられています。
西舘一字一石経塚は、北上川東側の丘陵上に位置し、市指定文化財である木造千手観音立像が安置される西舘観音堂の敷地内に所在します。昭和59(1984)年に観音堂の前庭を整備作業中、石碑を移動した際、その下から経石の一部が発見されました。この場所を精査すると、多数の経石を埋納した土坑が検出されました。土坑は、平面形が長軸1.2m、短軸1.1mの隅丸方形で、深さが中心部で0.6mを測ります。遺物は経石だけで土坑いっぱいに埋納されており、約3万個が出土しました。大6.5cmから小2.5cmほどの大きさの河原石に墨書されたもので、一字のみに書写されたものが多く、表だけのものと、表裏に書写されたものが見られます。また、2~4字が書写された経石も見つかっています。なお、調査後に出土した経石のほとんどが再び埋め戻され、一部が残されています。
現在、境内には経塚であることを示す経碑が建てられていますが、その経碑には「享保(きょうほう)九年甲辰 大乗妙典二部石書塔 九月吉日」と刻まれています。大乗妙典(だいじょうみょうてん)は妙法蓮華経を表し、経石が『妙法蓮華経』を書写したものと理解できます。経石埋納の経緯については、享保8(1723)年と9(1724)年に、全国各地で水害があって、北上川東岸である西舘周辺(当時は母体村)でも田畑のみならず多くの犠牲者が出たとされています。このことから経塚は、水害による犠牲者を供養するために埋納されたものではないかと考えられています。また、当時の調査担当者は、経石を書写して埋納したのは、母体村唯一の寺院である曹洞宗 耕雲院(こううんいん)の住職とし、寺暦から第8世浮海乗州(ふかいじょうしゅう)ではないかと推察しています。
(文:専門調査員 遠藤栄一)
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