胆沢城と「古文孝経」漆紙文書
2023-02-10
「古文孝経」漆紙文書は、昭和58年の胆沢城跡第43次調査(東方官衙地区)で出土しました。「古文孝経」は、儒教のテキスト「孝経」の注釈書の1つで、胆沢城跡出土のものは、228字分が判読できています。経典本来の文は大きめの文字で書かれ、それに続く小さめの文字は注釈の文です。
さて、この「古文孝経」漆紙文書について問題となるのは、文書が書写された年代観と廃棄された年代観にズレがあることです。この「古文孝経」は書体の観点から、8世紀半ば~後半頃に書写されたと考えられています。一方、廃棄年代は考古学的な見地から、9世紀後半頃とみられます。この間、およそ1世紀のズレがあります。
この問題を解くカギが、貞観2年(860)に「孝経」の注釈書として「古文孝経」等を使用することを廃止し、唐の玄宗(げんそう)皇帝が撰した「御注孝経」を用いるように定められたことです。このことから、胆沢城跡出土「古文孝経」は、8世紀半ば~後半の書写の後、胆沢城で用いられ、貞観2年の制度変更により廃棄されたと想定されました。
では、胆沢城で「古文孝経」が何に使用されたかというと、考えられる1つとして、釈奠(せきてん)の儀式があります。釈奠は儒教の開祖である孔子らを祀る儀式で、2月と8月に行われます。都はもちろんのこと、地方の国学(国ごとに置かれた教育機関)でも開催されました。
鎮守府胆沢城でも次第に国府同様の儀式が催されるようになるため、釈奠を行っていたとしてもおかしくはありません。胆沢城跡出土「古文孝経」は、原文以外の書き込みもなく、きれいな状態で保たれていましたが、そのことは公的な儀式用として大切に使われた状況を彷彿とさせます。
もっとも、鎮守府胆沢城で釈奠を行っていたとして、個人的に気になる点も多々あります。陸奥国の場合、国学は国府多賀城との関係が強いものと推測されますが、鎮守府での儀式はいったい誰が執り行ったのでしょうか? 胆沢城の施設構造からは、釈奠の儀式次第をどのように復元できるのでしょうか? 軍政を担った鎮守府において、あえて釈奠を開催しなければならなかった理由とはなんなのでしょうか?……。
国府と鎮守府の関係や、鎮守府で行われた他の儀式との比較を視野に入れるならば、考察の余地はまだまだ残されているように思います。
◆参考文献
平川南「古文孝経写本―胆沢城跡第26号文書―」『漆紙文書の研究』吉川弘文館、1989年、初出1984年
文:専門学芸員 大堀秀人
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