新発見!胆沢城跡出土の重要資料
2022-11-10
10月5日(水)、奥州市文化会館において、国立歴史民俗博物館名誉教授の平川 南先生のご出席のもと、胆沢城跡出土文字資料2点の記者発表を行いました。どちらも過去の発掘調査で出土した資料ですが、近年の再調査によって、鎮守府胆沢城の性格や機能に関する重大な内容を有していることが分かってきました。
今回はそんな2点の重要資料、「宇曹」墨書風字硯と第34号漆紙文書「歴名簿」の調査成果の概要を紹介いたします。
●「宇曹」墨書風字硯
風字硯とはU字型の硯のことです。この資料は、昭和51年度の胆沢城跡第25次調査(外郭南門地区)で出土しました。発見当時は墨痕が薄く文字を確認できませんでしたが、その後の再整理作業の中で、硯の裏面と側面に「宇曹」という字が書かれていることが判明しました。
「宇」は蝦夷の豪族「宇漢米公(うかめのきみ)」氏、「曹」は部屋や詰所を意味する「曹司(ぞうし)」のことで、「宇曹」は宇漢米公氏が詰める曹司を指すものと考えられます。この資料は、胆沢城の正面入り口である外郭南門前方の外溝から出土しましたが、そのすぐ近くに掘立柱建物があり、「宇曹」もそこに比定できます。位置的にみて「宇曹」は門の守衛や管理を担っていたと推測できます。
蝦夷は弓の扱いに優れており、門の守衛を任せるには最適な存在です。また、外溝からは江刺郡からの兵士貢進に関するものとみられる木簡も出土しており、近隣の郡からも兵士を徴発して、門の守衛をサポートする体制があったことも推測されます。江刺郡には甲斐国出身の移民で編成された甲斐郷がありましたが、甲斐国には朝廷の軍事面で活躍した大伴氏が分布し、また、弓の扱いに優れた靫部(ゆげいべ)にまつわる伝承があることも注目されます。
このように、「宇曹」は胆沢城の警備体制を解明する重要な手がかりといえます。しかしそれだけでなく、鎮守府の正門に蝦夷の有力豪族が仕える状況は、象徴的な意味も大きかったと考えられます。しかも、都では特定の氏族に門を守衛させる伝統がありましたが、「宇曹」はそのあり方にも通じています。
●第34号漆紙文書「歴名簿」
漆紙文書とは、漆容器の蓋として用いられた紙の文書で、付着した漆の硬化作用で土中でも腐らず残ります。この資料は、昭和58年度の胆沢城跡第43次調査(東方官衙地区)で出土しました。発見当時は文字を確認できませんでしたが、その後の漆紙再調査で、人名+年齢+年齢区分が1人1行で列記されていることが判明しました。
文書の性格は不確定要素もあり断定できませんが、記載内容からは、民衆把握の基本台帳である戸籍に近い「歴名簿」といえます。胆沢城跡から出土した漆紙文書の中では、民政に関わる初の事例で、鎮守府胆沢城の機能を考える上で重要となる資料です。
さらに、この資料には女性名ばかり記載されているという特徴がありますが、これは平安時代の現存戸籍と共通しており、特筆されます。平安時代には、女性には調庸の税負担がないものの口分田は与えられることを利用し、男性を女性と偽って戸籍に登録することで、口分田は確保しながらも税負担からは逃れるといったことが盛んに行われていました。この資料の背景にも、同様の事態を想定することができるかもしれません。
(文:専門学芸員 大堀秀人)
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