鎮守府胆沢城
胆沢城の歴史
胆沢城は、平安時代はじめの延暦21年(802)、坂上田村麻呂によってこの胆沢の地(現在の奥州市水沢佐倉河)に造られた古代城柵です。
大同3年(808)までには鎮守府が国府多賀城から胆沢城へ移され、鎮守府胆沢城が成立します。10世紀の後半ごろまでの150年間ほど機能していたと考えられています。
大正11年(1922)に国の指定史跡となりました。
胆沢城の規模と構造
胆沢城は、高さ約4.2m、一辺675mの築地とその内・外に掘られた幅3~5m、深さ1~1.5mの溝で方形に囲まれていました。
全体の面積はおよそ46万㎡(東京ドームが9つ入る大きさ)あります。中央南寄りに一辺90m四方の塀で区画された政庁域、その脇に官衙や厨などが配置されていました。
全体の面積はおよそ46万㎡(東京ドームが9つ入る大きさ)あります。中央南寄りに一辺90m四方の塀で区画された政庁域、その脇に官衙や厨などが配置されていました。
■築地(ついじ)
土を突き固めて造る土塀のこと。
幅2.4m、高さ4.2m、総延長2.7kmの築地が、胆沢城の周りを囲んでいました。
幅2.4m、高さ4.2m、総延長2.7kmの築地が、胆沢城の周りを囲んでいました。
■南大路と政庁前門
胆沢城の正門である外郭南門(東西14.8m×南北7.2m)から政庁に向かう北への大路上には政庁前門(東西12m×南北5m)と政庁南門(東西3.4m×南北2.4m)の2つの門があり、これらの門を通らなければ政庁正殿へは行くことができませんでした。
特に政庁前門は東北古代城柵では見られない、胆沢城特有の施設です。
■政庁
大事な儀式を行う胆沢城の中心施設です。
例えば…
・朝廷に降伏したエミシをもてなす儀式
・災いをはらう仏教の儀式
・災いをはらう仏教の儀式
などが行われていました。
■官衙(かんが)
役所のこと。胆沢城には、日常の事務や行事を担当する役所が政庁域の周辺にいくつか配置されています。各官衙は溝や柱列によって仕切られていました。
・北方官衙=九蔵川を利用した物資の搬入を管理。
・東方官衙=儀式に関係のある役所。
・厨=食料の管理や調理を担当。宴会の料理はすべて厨で用意しました。
・東方官衙=儀式に関係のある役所。
・厨=食料の管理や調理を担当。宴会の料理はすべて厨で用意しました。
胆沢城の機能
■胆沢城の主な仕事
・周辺のムラや郡を治める。
・朝廷側についたエミシをもてなす。
・たくさんの兵士を管理し、周辺の警備を行う。
・周辺のムラや郡を治める。
・朝廷側についたエミシをもてなす。
・たくさんの兵士を管理し、周辺の警備を行う。
■胆沢城に勤めていた人々
・将 軍 (1人)=鎮守府の最高責任者
・府 掌 (2人)=庶務や施設の管理を行う役人
・軍 監 (1人)=将軍を助ける役人
・軍 曹 (2人)=将軍を助ける役人
・陰陽師 (1人)=戦いや日常の吉凶を占う人
・弩 師 (1人)=大弓を指導する人
・医 師 (1人)=病気の治療や医術の指導にあたる人
そのほか、たくさんの兵士などが勤務していました。